【写真】再開発が進む中心市街地に残る、まとまった広さの福島病院跡地

民間活力導入も検討 福島病院跡地活用
五十嵐清隆 伊勢崎市長に聞く2020【2】

― さまざまな施策の計画策定にあたり、市民の声を聞き、要望を取り入れるパブリックコメント(意見公募手続)が数多く実施されています。これまでの施策のパブリックコメントなどの反応と、要望受け入れなどの実績があれば教えて下さい。

五十嵐市長 2019年度のパブリックコメントの実施状況は、2020年1月15日現在、22件を実施している。このうち意見の取りまとめが修了した6件からは、4件のご意見をいただいている。各種施策に対し、ご意見をいただくことは、市民参加条例の目的である「伊勢崎市がゆたかで活力のあるまちとして発展する」ことに寄与していると考えている。今後も広く意見を募集し、積極的に取り入れていきたい。

― 施設維持計画実施にあたり、PFI(公共施設等の建設・維持管理・運営等を民間資金や経営ノウハウを活用する事業手法)やPPP(民間資金・ノウハウを活用し、公共サービスの充実を図る事業手法)などの導入も検討にあがっています。導入の際の方針は。

五十嵐市長 施設の設置目的や性質によるが、厳しい財政状況の中では、PFIやPPP事業の活用は有効な手段と認識している。施設所管課ごとに個別施設管理計画がパブリックコメント手続き経て策定していく中で、各施設のあり方や運営方法によっては、市単独で施設整備を行う従来型手法だけではなく、民間活力導入も検討していきたい。

― 伊勢崎駅周辺整備事業の来年度の進展、市街地活性化に向けて関心が高まっている福島病院の移転跡地の活用についてお聞かせ下さい。

五十嵐市長 伊勢崎駅周辺整備事業については、今後も伊勢崎駅南口線(シンボルロード)及び足利通りの幹線道路を中心に整備を進めていく。中心市街地でもまとまった福島病院跡地については、波及効果など総合的観点から民間活力の導入も含めた手法や有効活用の検討を進めていきたい。

 企業誘致課に産業団地推進係を新設

― 宮郷工業団地が完売しました。続く工業団地として「境北部工業団地周辺区域」、「南部工業団地周辺地区」を候補地とする構想が浮上しています。

五十嵐市長 伊勢崎宮郷工業団地は、分譲開始から5年を待たず昨年10月に完売している。市内企業4社、県外企業8社の誘致で、バランスのとれた産業団地が誕生した。これにより市内の公的産業団地は在庫が底をつき、新たな産業団地造成に向けて今後、県や関係機関との調整を進めていく。また施策をより強力に推進していくため、新年度の組織改革で、企業誘致課内に産業団地推進係を新設した。(2020年3月3日)
  

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【写真】元気な姿を見せた五十嵐伊勢崎市長

5重点政策推進 子育て環境も より充実へ
五十嵐清隆 伊勢崎市長に聞く2020【1】

 伊勢崎市の市政運営政策はここ数年、「福祉・医療」「地域経済」「安全・安心」「教育・スポーツ・文化」「行財政改革」の5重点政策を掲げ、バランス良く取り組んできた。市の新年度予算案も発表され、継続・推進を強調し、中でも子育て環境の充実には優先的に取り組んでいる。大腸腫瘍治療で入院していたが、退院し公務に復帰した五十嵐清隆市長に、新年度の取り組みやその方向性を聞いた。

― 当初予定より退院が長引いたので市民も心配していると思いますが、その後体調はいかがですか。

五十嵐市長 市民の皆様には大変ご心配をおかけしたが、お蔭様で順調に回復し、2月17日から公務に
復帰している。今後も市政の発展のために努めてまいりますので、よろしくお願いたします。
 
― 5重点施策をバランスよく執行して行くために今後も「行財政改革」が求められます。2019年度に、より手応えを感じた取り組みと、来年度に向けて力を注いでいきたい取り組みは。

五十嵐市長 行財政改革で個別の例をあげると、昨年10月から導入した聖苑(いせさき、さかい)予約管理システムがある。これまで市民課、施設への電話や直接出向いての予約が、市のホームページから空き状況を確認して簡単に予約できる。今年1月から開始した前橋・高崎市との3市共同システム(次期基幹情報システム構築事業)は、住民基本台帳など事務の標準化で、業務の効率化と市民サービスの向上を図っている。新年度も引き続き5重点政策を掲げ、着実に推進することで、未来に向かって元気であり続ける伊勢崎市目指したいと考えている。

― 各種の子育て支援は昨年、第3子以降出産祝い金問題などで市民の関心を集めました。新年度の対応は。

五十嵐市長 第3子以降の出産祝金については、市民の皆様の要望が大きいことを確認出来たので新年度も継続していく。なお今後の子育て支援策については、子育てを取り巻く環境の変化や財政状況を勘案し、限りある予算の中で、より効果の望める支援策を総合的に検討していきたい。

― 公共施設の維持について継続、統廃合を決めた個別計画策定が進んでいます。一方で、施設を通して提供する公共サービスの充実など、ソフト面ではどのような取り組みを。

五十嵐市長 さまざまな施設の現状の機能を実質的に確保することを目指している。同時に社会情勢や市民ニーズの変化を見据えて、公共施設の安定的な管理運営を推進し、行政サービスの維持・向上を図っていきたい。(2020年2月22日)

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【写真】右:「森村酉三と伊勢崎」をテーマに講演する手島さん。左:華蔵寺公園内の酉三作「板垣源次郎像」は台座だけが残る

「酉三と伊勢崎」テーマに研究者が講演
鋳金工芸家「森村酉三」没後70年【4】 

 伊勢崎市(旧宮郷村大字連取)出身で鋳金工芸家の森村酉三・寿々夫妻研究者の手島仁さんが12月21日、伊勢崎市立図書館2階ホールで「森村酉三と伊勢崎」をテーマに講演した。地元名門の森村家に生まれ、東京美術学校(現東京藝術大学)在学中から帝展連続入選など、若くして才能を開花させた酉三(1897−1949)。郷里のさまざまな名士の支援とともに、その芸術活動をさらに高めたのが才色兼備の寿々(1903−2001)との結婚だったと、酉三の充実した芸術家生活を紹介した。

 とはいえ、年長の作家が戦後も活動を続けて評価を高めてきたのに対し、酉三は戦後の円熟・完成期を迎えることなく52歳で病死。一方、酉三と死別後、後年は女性鋳金家として白寿を全うした寿々は、52歳で芸術家仲間の洋画家、田中佐一郎と再婚(田中も再婚でこの時55歳)している。手島さんは亡くなる2年前に寿々と面談し、森村夫妻の貴重なエピソードも紹介した。

 酉三は前橋中学(前橋高校)から沼田中学(沼田高校)を経て東京美術学校へ。1972年に新設された帝展の工芸部門に入選すると、以後当選を重ねた。酉三の将来を高く評価し、支援したのが伊勢崎の織物原料糸商の佐藤藤三郎だった。鋳金家としての初仕事が、同商店の新築洋風店舗の噴水装置の置物と外壁2階窓上のブロンズ製草花置物。彫刻家としての初仕事も地元だった。大正期の教育者の板垣源次郎胸像は、胸像部分は戦時下に供出され、台座のみが華蔵寺公園に残っている。

              自由恋愛の代償は森村家の勘当

 寿々は佐波郡伊勢崎町(伊勢崎市三光町)の料亭「藤本」の一人娘。伊勢崎実科高等女学校時代は同級生の兄で、後に作曲家となる町田歌聲に憧れていた、と手島さんは明かす。卒業後に酉三と出会い、酉三27歳、寿々21歳の時に結婚。寿々は大間々町(みどり市)の貴船神社の初デートを初々しく語ったという。一方、自由恋愛の代償で森村家から勘当され、東京・池袋での新婚生活は困窮を極めた。この2年間の苦労が「森村を大人にし、2人を強く結びつけた」と寿々は回想している。

 この時も励まし続けてくれたのも佐藤藤三郎。寿々の親族を中心に行った伊勢崎の「白水楼」の祝宴には仲人を務め、後の後援会の組織づくりにも尽力した。佐藤は森村家とも親しかったことから同家を根気よく説得。帝展などの入選も重なったことで勘当が解かれ、森村家の支援で池袋の丸山町に住居とアトリエ、鋳金工場を新築。酉三の本格的な創作活動が始まった。

            
 手島さんは以後の2人の生活を「高踏的」と表現する。酉三の余暇は、夏の北アルプス登山、冬の妙高高原へのスキー、秋は手塩に掛けた菊の鑑賞と多趣味。登山もスキーも用具は舶来の一流品を使ったという。寿々は周囲から「モガ(モダンガール)」と呼ばれ、合宿中の陸上競技選手の人見絹枝と出会い、親しくなったエピソードも紹介。昭和モダニズムの先端を生きた作家夫婦像も明かした。(2019年12月29日)

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【写真】演奏中の森村恭一郎さん(後方中央)を中心としたジャズグループ

森村家縁者のサックス奏者がジャズコンサート
鋳金工芸家「森村酉三」没後70年【3】 


 群馬県立近代美術館の没後70年「森村酉三とその時代」企画展(9月21日〜11月10日)に併せて10月26日、同美術館エントランスホールでミュージックコンサートが開かれた。伊勢崎市出身の鋳金工芸家、酉三の縁者でサックス奏者の森村恭一郎さんを中心としたジャズグループが、酉三への思いを込めて関連楽曲を演奏。酉三が東京・池袋在住時代の隣人だったという、江戸川乱歩の明智小五郎シリーズに登場する「少年探偵団」なども披露した。主催は同美術館友の会。

 恭一郎さんは軽妙なMCを交え、ジャズやラテンナンバー、歌謡曲やアニメソングを披露した。「酉」から「鳥」を関連付け、オープニングで「鳥の歌」を恭一郎さんがサクソフォンソロ。「バイバイ ブラックバード」をクインテッドで演奏した。「インザムード」は、恭一郎さんが指導する若手2人とサックストリオを組んだ。「コーヒールンバ」などはフラメンコダンサーも加わり、エントランスホールの臨時ステージを華やかに飾った。少年探偵団は30年以上前の音楽雑誌からの楽譜を初見で演奏した。

 森村家は350年以上続く伊勢崎市の旧家で、酉三と恭一郎さんの父の梓さんは従兄弟にあたる。酉三は16代当主の連太の三男として生まれ、東京美術学校(現東京芸術大学)鋳造科を卒業後、池袋にアトリエを構える。隣同士の関係で親しくしていたのが、推理小説の巨匠、江戸川乱歩。少年探偵団の挿絵には、酉三が原型制作した高崎観音が掲載されるなど、2人の親密な交流が伺える。恭一郎さんは観音像の足元の案内板を見た際の「西という字に一本横線が入った酉の字」の印象を懐かしんだ。

 恭一郎さんは伊勢崎東高校、国立音楽大学卒業後、群馬県立高校の音楽教員。音大在学中にロックバンドやクインテッドに参加し、新宿のピットインなど都内ジャズ喫茶を中心に演奏した。テレビ、ラジオにも出演し、全国ツアーをこなすなかで、著名ミュージシャンとも共演。教員退職後も演奏活動とサクソフォン指導を続けている。(2019年10月30日)

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【写真】高崎白衣大観音像(中央)と原型(左:森村作、右:清水作)

高崎白衣大観音像の原型制作にライバル
鋳金工芸家「森村酉三」没後70年【2】 

 高崎の白衣大観音原型制作者として知られる、鋳金工芸家の森村酉三(伊勢崎市生まれ 1897〜1949)だが、この制作にあたりライバルがいたことを、群馬県立近代美術館の没後70年「森村酉三とその時代」企画展の関連事業シンポジウム「高崎白衣大観音の謎に迫る」(9月29日開催)で、パネラーで同美術館学芸員の神尾玲子さんが明かした。これまでは群馬県内の研究者や評伝、解説で、白衣大観音を建立した井上工業創業者の井上保三郎が、地元の新進気鋭の彫塑家だった森村に依頼した、とだけ語られていた。

 1936年に建立された高崎観音は、鉄筋コンクリート製で高さ41・8メートル、重さは5,985トン。神尾さんはその2年前の上毛新聞記事(1934年5月29日掲載)などから、原型制作を森村が担当したことを紹介。一方で、長野県出身の彫刻家・清水多嘉示(1897〜1981)も原型制作に関わったことを、清水自作の観音と共に写った遺族の写真や雑誌「総合美術(1933年版)」を紹介しながら、制作が森村よりも先行していたことを明かした。

 清水は1923年から5年間、パリに留学。アカデミーでブールデルから彫刻の指導を受けていた。清水と同年齢で、井上保三郎の長男、房一郎がほぼ同時期に絵画を学ぶために渡仏。交流を深めていたことが、父の観音像建立の原型依頼への接点だったのでは、と神尾さんは推し量った。最終的に森村に決まった経緯は定かではないが、保三郎が房一郎の送ってくる、パリの公園に立つ国家功労者の銅像の絵葉書に感化され、観音像建立を思い立ったことにもふれ、父子2代にわたる様々な想いが込められた物語の存在を指摘した。

 シンポジウムでは井上保三郎・房一郎研究者で元井上工業職員の塚越透さんが、公共建設にも芸術性を求めた保三郎が、沼田中学校(現沼田高校)建設に当たり、森村に五常の鐘(1928年)の制作を依頼した経緯を紹介。元小学校長で、群馬歴史散歩の会編集委員の田口さんは、保三郎の天皇陛下単独拝謁が建立への思いを強くしたことを強調した。

 前橋学センター長の手島仁さんが、高崎観音山公園と観音像建立までの経緯などをシンポジウム冒頭で概略説明。質疑応答後に、森村の妻・寿々さんが2001年に亡くなる2年前に聞いたという「一生の仕事が出来て良かった。高崎観音像の仕事に関わることが出来たのは誇りである」とした、森村の観音像への特別な思いを紹介。以後、同様の仕事は一切、請けなかったというエピソードで、シンポジウムを締めくくった。(2019年10月12日)

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【写真】左上:高崎白衣大観音の原型。右上:佐藤藤三郎商店の建築プレート。左下:帝展出品作品「ペリカン(銀香炉)」。右下:前橋市水道局の水道供用栓。

群馬県立近代美術館初の本格的個展
鋳金工芸家「森村酉三」没後70年【1】

 伊勢崎市(旧宮郷村)出身の鋳金工芸家で、高崎の白衣大観音原型制作者として知られる、森村酉三(1897〜1949)の没後70年企画展「森村酉三とその時代」が、高崎市の群馬県立近代美術館で11月10日まで開かれている。恩師や同年代作家、妻・寿々の作品も含めた総展示は約140点に及ぶ、初の本格的な回顧展。当時の鋳金芸術が、時代とともに発展してきた推移も知ることができる。

 酉三は前橋中学(前橋高校)から沼田中学(沼田高校)を経て、東京美術学校鋳造科(東京芸大)に進学。在学中に農商務省主催の美術工芸展覧会に4回連続入選を果たすなど若くして頭角を現し、大正から昭和にかけて鋳金家として活躍した。戦前の帝展・新文展を通じて工芸部門で、群馬県出身者として活躍した唯一の作家として評価されている。

 酉三作品の展示は約90点。作品は花瓶や鳥や動物の置物、郷土名士の胸像や新田義貞像、公共鋳造物、高崎白衣大観音の原型制作など多岐に渡る。人物彫刻や公共鋳造物は戦時中の供出で多くが失われ、現存する作品は決して多くない中、都内や地元伊勢崎、前橋、高崎の個人所蔵家の協力も得て集めた。

 東京美術学校を卒業後、鋳金工芸家・彫刻家としての酉三をスタートから手厚く支援したのが、森村家と親しかったという、伊勢崎で織物原料商を営んでいた佐藤藤三郎商店。1924年(大正13年)竣工の瀟洒な店舗建築2階窓に、藤模様の鋳造建築プレートを制作。新築記念披露品として亀と兎の花瓶も製作している。(2019年9月25日)


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【写真】市民に協力を呼びかけたチラシと小暮伊勢崎市議

最大会派内で修正に動いた小暮市議に聞く
「出産祝金廃止条例案」急転の舞台裏【3】

 伊勢崎市議会3月定例会の新年度予算審議「第3子以降の出産祝金廃止条例案」。告知や経過措置問題を指摘する声を尻目に、市議会は最大会派の伊勢崎クラブ(原田和行会長)の意向を受けて廃案可決に動いた。同クラブに所属しながら、クラブ内で修正動議に向けて声を挙げた小暮笑鯉子伊勢崎市議に聞いた。

―― 2月13日の市議会議員運営委員会で浮上した「第3子以降の出産祝金廃止条例案」。どのように受け止めましたか。

小暮市議 「何?これ」と、思うと同時に涙がジワ〜と込み上げてきた。私自身、既に2回もこの祝い金を受けている身。4月以降に出産予定の知り合いもおり、祝い金が唐突に無くなることの弊害は大きいと感じた。すぐにクラブ内で「このまま通ったら大変なことになる」と、同期・1期生議員を中心に個別に声を掛けた。心情的には理解してもらえたものの、クラブの多数決決定の前では修正への動きは鈍く、原田会長には直接事務所を訪問するなどして何度もかけあった。

「伊勢崎クラブの総意で修正案を」

―― 2月22日開催の本会議の質疑では、伊勢崎クラブの栗原麻耶市議、共産党の長谷田公子市議、一人会派だった堀地和子市議3人が、同一議案で登壇しました。

小暮市議 当初は私も質問する予定だったが、会派内の諸事情で栗原議員に託した。十分な告知期間や経過措置については、執行側としても熟慮の提案であったと思うが、回答はいずれも「必要なし」と素っ気なかった。他の自治体を調べたら、こうした場合は一定の告知期間を設けており、市の対応にはどうしても納得がいかなかった。

―― 付託議案として採択を求められた、自身が委員長も務める文教福祉委員会(委員長は後日辞任)が3月7日に開かれ、廃案が可決されました。

小暮市議 委員会前のクラブの話し合いで、修正案を主張したが多数決で押し切られ、委員会では議決に加われない委員長として廃案の可決に臨んだ。クラブの総意としての祝い金廃案修正に望みがなくなりつつある中で、既に修正動議提出に動いていた堀地市議に相談すると「一緒に」と誘われた。
周囲からは「大人の対応を」と、たしなめられたが、修正動議提出期限の迫る中、クラブ退会を決意し、5人が署名した修正動議提出に加わった。並行して関係者や多くの市民に訴え続けると同時に、フェイスブックにも投稿を続け、民意を身近に感じた。

 「自分は何のために議員になったのか」

―― クラブの総意に反する行動からクラブ退会へ。その一連の行動とSNS(交流を促すコミュニティ型Webサイト)も含めた発信力が、これまで多数決原理で揺るがなかった最大会派の岩盤を突き動かす一因にもなったのでは。最大会派に所属するメリットは決して少なくなかったはずですが。

小暮市議 初心に戻って考え、悩んだ。自分は何のために議員になったのか。同じ悩みを持つ女性たちに、何かできる立場にいながら、保身のために、こんな理不尽なことを見過ごしていいのかと。
これからも市民が何をどのように考えているのか、しっかりと民意をすくい上げて、伊勢崎市に何が本当に必要なのかを考えていきたい。クラブを退会し一人会派にはなったが、今後も信念と覚悟を持って、議員活動に取り組みたい。子どもたちに希望が持てる未来を残すためにも。(2019年7月16日)
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