トイレが主役になった映画「パーフェクトデイズ」
ニューヨークタイムズ 映画欄記事(2024年2月3日付)
映画の舞台となったトイレの「TOKYOTOIRETプロジェクト」の紹介チラシ

トイレが主役になった映画「パーフェクトデイズ」
ニューヨークタイムズ 映画欄記事(2024年2月3日付)

【モトコ・リッチ東京支局長】

 公衆トイレが心を揺さぶり芸術的なインスピレーションが得られるということは通常ありえない。
 そしてまた、東京の銭湯にあるようなトイレというのは世界でも稀である。
だからこそ、『パリ、テキサス』や『欲望の翼』のようなアート系の人気作を手がけたドイツ人映画監督ヴィム・ヴェンダースは、2022年の春に初めて日本の首都周辺の公衆トイレを十数か所見学したとき、安藤忠雄、坂茂、隈研吾らプリツカー賞受賞者がデザインした「小さな宝石」と形容されるものに魅了された。これらのスタイリッシュな便器は、アカデミー賞の国際長編部門にノミネートされ、2月7日にアメリカで公開される彼の最新作『パーフェクトデイズ』の着想に火をつけることこととなった。

 この映画は、謎めいた過去を持つ公衆トイレの清掃員が、質素な生活を送りながら職人のように丁寧に働く姿を描いた切ない人間ドラマであるが、実はある種の宣伝活動がきっかけであった。ヴェンダース監督は、日本の著名な実業家のゲストとして日本に招かれたのだが、その実業家はヴェンダース監督に、日本の芸術性と衛生技術のショーケースとして考案されたトイレを題材にした短編映画シリーズを撮ってほしいと考えていたのだ
 ファーストリテイリング(ユニクロで知られる衣料品大手)の創業者の息子であり、同社の上級執行役員である柳井康治氏は、「日本の誇り」を建築によって表現する公衆トイレ・プロジェクトの陣頭指揮を執っていた。
「日本のトイレが世界一だと言っても、誰も異論はないでしょう」と柳井氏は昨年末のインタビューで語っている。柳井氏は、公共施設を芸術と同じように公益的なものとするため、独特の美的感覚を持つ建築家を採用したのである。

 当初は2020年に予定されていた夏季オリンピックのために世界を歓迎するために建設されたものだったが、パンデミックによって大会が2021年に延期され、無観客で開催されたため、計画はその機会を得られなかった。
 オリンピック・デビューが失敗に終わった後、柳井氏は別のプロモーションの道を模索していた。日本最大の広告会社である電通のクリエイティブ・ディレクターで脚本家の高崎卓馬氏に連絡を取り、トイレを国際的にアピールする計画を練った。
 高崎氏は、クエンティン・タランティーノやマーティン・スコセッシ、スティーブン・スピルバーグといった映画監督を起用することを提案した。大学時代に『パリ、テキサス』を見て以来のファンである柳井氏は、ヴェンダース監督が日本に強い関心を持っており、日本の偉大な監督である小津安二郎へのオマージュであり映像日記であるドキュメンタリー『東京画』を制作していたことを思い出した。

 招待状が届いたときは、パンデミックの真っ最中で、ヴェンダース監督は8年ぶりに訪れた日本にある種の郷愁を感じていた。昨年秋、ヴェンダース監督が審査委員長を務めていた東京国際映画祭の会期中、むき出しの会議室で、スタッフが彼の前に並べたチョコレートの包み紙を剥がしながら、「東京はいつも不思議と落ち着くんだ」と言っていた。
 ベルリン出身のヴェンダース監督は、パンデミック(世界的大流行)の際に、住民が自宅近くの公園を荒らしたことから、市民の心の荒廃に落胆した。東京、とりわけデザイナーズ・トイレに、彼は清潔さや地域社会の協力といった純粋な精神の体現を見たのだ。
 「これほど細部にまで気を配ったトイレは、世界中どこを探しても見たことがない」とヴェンダース監督は言った。彼はこの清掃員の働き(一般的な公衆トイレの清掃が1日1回であるのに対し、柳井氏は清掃員に資金を提供し、毎日2〜3回、建築トイレの手入れをさせている)を市民の精神の賜物と捉えた。

 東京を離れる前、ヴェンダース監督はトイレ清掃員を主人公にした長編映画を撮りたいと考えていた。柳井氏は、1996年の恋愛ドラマ「シャル・ウィ・ダンス?」で主演を務めて以来、国際的な人気を博した日本で最も有名な俳優の一人、役所広司氏を推薦していた。
 物語を作り始めるにあたって、ヴェンダース監督は主人公がどこに住むかを知る必要があると感じた。ヴェンダース監督は東京取材旅行の最後の数日間をロケ地巡りに費やした。彼は、スカイツリーの影に低層アパートがひっそりと佇む、東京の東部にある労働者の街、押上に決めた。
 「私にとって、この界隈は欠かすことのできない場所だった」とヴェンダース監督は言う。「カメラを構えるためには、その場所を愛する必要があるんだよ」。

 監督がベルリンに戻った直後、高崎氏が加わり、わずか3週間で全編日本語の脚本を練り上げた。
ヴェンダース監督は、細部にまで静かな注意を払い、大切にしているカセットテープや地面に落ちた木の葉の影に喜びを見出すような人物像を作り上げた。監督は憧れの小津監督に倣い、小津の代表作のひとつとされる『東京物語』に登場する一家の名前にちなんで、平山という名をこのトイレ清掃員につけた。
 ヴェンダース監督は、必要なものだけに絞り込まれた日常を構想するにあたり、このキャラクターを「持たざることの美しき象徴」にしたいと考えた。
「削減することは現代文明の大きな課題のひとつだ」とヴェンダース監督は言う。「そして、私たち自身の無駄を無くしていく方法を学ばなければ、地球と気候をより良くすることはできない」

2022年の秋に撮影が始まる前、監督と役所氏は、主人公が自宅で大切にしている観葉植物の手入れをしたり、寝室の整然とした棚からフォークナーの翻訳作品を読んだりする様子を撮影するアパートを訪れた。ヴェンダース監督は役者に、美術監督から提供された小道具を合理化し、登場人物にとって最も重要なものだけを残すことを考えるように頼んだ。
 「私はこう自問自答するんです―本当にそんなものを持っているだろうか?と」 役所氏は昨年末、レンタルオフィスでの会見で当時をこう振り返った。 「そうやって現実的でないものを取り除いていくのです」
 役所氏は2日間、特注の道具の使い方を含め、トイレ掃除の技術を学んだ。彼は、ヴェンダース監督がドキュメンタリーを撮っているかのように演じたいと言った。監督は、これほど完全にそのキャラクターになりきった俳優と仕事をしたのは初めてだと語った。役所氏は昨年春のカンヌ国際映画祭で最優秀男優賞を受賞している。

 ヴェンダースは、2022年の秋に記者が撮影現場を訪れたとき、坂茂が設計した公衆トイレのひとつで、紫、赤、黄色の半透明のパネルが貼られた長方形のガラス張りの建物で、利用者がトイレのドアの鍵を閉めると不透明になるもののシーンを撮影していた。
 青いジャンプスーツに身を包んだ役所は、腰に工具ベルトを巻き、青いゴム手袋と白いスニーカーを履いていた。彼は通訳を介してヴェンダース監督に短い打ち合わせした。グレー・ベージュのリネンのスリーピース・スーツに黒ぶちメガネ、黒の布製スニーカーという出で立ちの監督が「アクション!」と声をかけると、役所はバケツとゴミ袋2つ、トイレットペーパー1つを持って中央の個室に入り、エキストラは両脇の個室に入った。
 午後の光が弱まり、15日間の撮影スケジュールの緊張感が撮影現場に漂い始めた。撮影の合間には、役所がトイレのゴミ箱を掃除するために、スタッフがトイレのゴミ箱にゴミを詰めた。業を煮やしたヴェンダース監督が「あっちへ行け!」と叫ぶと、クルーは小走りで自転車の陰に隠れた。
 ヴェンダース監督は、この撮影はこれまでで最も短いものだったと語っており、その無駄のない撮影技術は映画の最小主義的なコンセプトを反映している。

 庄司かおりは日経アジアに寄稿し、この映画を「禅僧との問答のようで、相手には疑問ばかりが残るが、不思議な静けさが漂う」と評し、主人公の仕事への献身を「ほとんどの日本人が当たり前のこととして受け止めている。仕事の重要性は疑いもなく、生まれたときから私たちに叩き込まれているものだ」としている。
 だが、このキャラクターが非現実的なファンタジーだと感じるものもいる。低賃金で薄汚れた仕事に満足し、孤立した生活を送る男は、日本人の平穏さに価値を見出す「男性や西洋人の夢」だと、東京大学の林香織教授(メディア論)は言う。「これを素晴らしいと思うのは、すでにお金持ちで、詰め込みすぎの役員スケジュールから逃れたい人たちだ」と林教授は言う。

 役所氏は、唯足るを知る男という描写が理想主義的に見えることを認めている。
「多くの人間は、欲しいものを手に入れると、すぐに別のものが欲しくなり始める」と彼は言う。 「その考えからは決して逃れることはできない」
 しかし、たとえそのキャラクターが「理想的すぎて、現実には存在しない」ものであったとしても、「そうなろうと努力することには価値がある」と役所氏は言った。

 【翻訳】星大吾(ほしだいご):伊勢崎市中央町在住。新潟大学農学部卒業。白鳳大学法科大学院終了。専門は契約書・学術論文。2022年、伊勢崎市の外国籍児童のための日本語教室「子ども日本語教室未来塾」代表。問い合わせは:h044195@gmail.comへ。

妻の重度障害で介護離職 自ら介護事業を起業
家族・患者支える重度障害者グループホーム開設(2024年1月30日)
車椅子で闘病中だった妻の敦子さんと板橋さん

妻の重度障害で介護離職 自ら介護事業を起業
家族・患者支える重度障害者グループホーム開設(2024年1月30日)

 難病のALS(筋委縮側索硬化症)に罹った妻を在宅介護するため、離職後に起業した未経験の介護事業。訪問介護・看護に続いて昨年6月、医療ケア対応型の重度障害者グループホーム「ライフコミュニティーAILE/エイル」(伊勢崎市北千木町)を開設したのは、会社員だった板橋亨さん(伊勢崎市三光町 61歳)だ。「妻のために自分にできることは、これしかなかった」と当時を振り返る。

エイルの建物
伊勢崎市北千木町に開設した重度障碍者グループホーム「ライフコミュニティーAILE」

 妻の敦子さん(60歳)は昨年2月、施設の完成を見ることなく亡くなっている。ALSと診断されたのは2016年9月。その1年前から右腕が上げにくくなり、転ぶことが多くなるなど不調を訴えていた。車椅子生活が始まったが、長時間の在宅介護サービス事業所が見つからないため、夜間はたんの吸引など板橋さんが睡眠時間を削って介助にあたっていた。

 板橋さんは約13年間、建設業を営んでいた。40歳前に事業の先行きに不安を覚え、資格や経験を買われて大手不動産会社に転職する。妻の発症時は管理職を務めており、定時退社など望めない多忙な業務に追われていた。在宅介護は日中の付き添いの他、夜間介助など家族の負担は大きい。会社には介護を申告して1年間ほど頑張る中、転勤などの打診を受けて退職を決意。この間、妻の在宅介護に関わりながら出来る仕事を模索していた。

 「家族に迷惑をかけたくない」と妻の敦子さんは当初、延命治療を拒否したが、大学生だった2人の息子との説得に最後は折れてくれた。とはいえ、重度の障害者が望むサービスを受けられる施設はほとんどなく「生計を維持し、妻に生き続けてもらうためには自ら介護事業をやるしかなかった」と、未知の業界への参入の心境を語る。妻の介護で得た、業界知識と当事者目線だけが頼りだった。

介護タクシー
3台が稼働している介護タクシー

 18年11月、自宅(伊勢崎市三光町)を事務所に株式会社スマイルークを設立した。翌年2月にはブランド名「ケアサポ24」(同所)で訪問介護事業をスタート。続いて同年6月には、自らも運転手としてハンドルを握り、介護タクシー(同市連取町)を始めている。訪問看護(前同)は同年12月、21年3月には相談支援事業所と体制を整えていった。

 昨年6月に開設したのが、医療ケア対応型で障害区分5〜6の重度障害者向け施設AILE(エイル)だ。24時間、看護師や喀痰吸引(1〜3号)資格者などが常駐。2階建てで21床のうち、現在はショートステイも含めて10床が入居している。県内の他、埼玉や都内からの問い合わせも多いという。板橋さんは同様の介護施設は今後も必要とみており「満床になったら2棟目、3棟目と必要な地域に開設していきたい」と意気込みを語る。ALS協会群馬県支部長を務め「同じような境遇の患者や家族の支えに」と闘病の傍ら、講演活動も行った妻の思いを引き継いでいく。(2024年1月30日)

伊勢崎市の中心市街地の結婚式場で解体始まる
施設所有の山万が跡地にテナント誘致を交渉中(2024年1月16日)
解体工事が進む結婚式場。隣接して3方向で進む道路拡幅・新設工事

伊勢崎市の中心市街地の結婚式場で解体始まる
施設所有の山万が跡地にテナント誘致を交渉中(2024年1月16日)

 伊勢崎市の中心市街地の一角で、ヨーロッパの居城を思わせる白い尖塔が目を引く結婚式場の解体が始まった。「ティアラガーデンズ伊勢崎」(伊勢崎市大手町11−20)を所有している不動産開発の山万(東京都中央区)は、跡地活用としてテナント企業との交渉を進めている。伊勢崎駅周辺第一土地区画整理地区内の解体跡地は、東南2方向で道路拡幅、西側に道路が新設されるなど土地環境が一新される。

 「ティアラガーデンズ伊勢崎」の営業時は、プール付きガーデン併設の2つの邸宅でもてなす演出と、青いバージンロードやチャペル「メアリーズ大聖堂」が人気を集めていた。2018年から山万のグループ会社で施設管理や関連事業を手掛けるワイエム総合サービス(千葉県佐倉市)が運営していた。コロナ禍で業績が低迷し、回復が思わしくなかったことから昨年9月末で営業終了後、山万で跡地活用を模索していた。

 解体跡地は伊勢崎駅周辺第一土地区画整理地区内にあり、南側は都市計画道路の事業化で道路幅員は16m(車道10m、歩道3m×2)、東側の伊勢崎停車場線は12m(車道7m、歩道2・5m)にそれぞれ拡幅工事中。これら工事でアイオー信用金庫大手町支店前を東西に走る変則的な”カギザギ”交差点は、東西に真っ直ぐ抜けることになる。一方、西側は6m道路が新設されるなど、3方向を道路が囲み、商業地としての利用度が高まる。

 解体結婚式場の規模は2階建て延べ約2600平方mで、その跡地の敷地は約3800平方m。解体工事は3月末に終了する。同社では跡地活用として既に「テナント企業と交渉中」(山万ビル事業部)で、交渉がまとまり次第、テナント施設の建設準備に入る。山万は1971年から千葉県佐倉市のユーカリが丘駅北口で、鉄道事業を含めた250ヘクタールの複合開発などを手掛ける総合不動産開発企業。

 営業していた田原屋撤退後に更地となっていた2006年、分譲マンション建設計画が持ち上がっていた解体跡地。その後の2009年に結婚式場が開業している。当初は「クイーンヒルズ迎賓館フォレストキャッスル」の名称で営業していた。2016年から結婚式場の「風と緑のウエディング」(東京都八王子)が運営を担ったが、2018年会社更生手続きを申し立てられ、ワイエム総合サービスが運営を引き継いでいた。

炎上する日航機、しかし機内の秩序は守られていた
ニューヨークタイムズ アジア太平洋欄記事(2024年1月2日付)
炎上後に灰燼と化した日航機の胴体(1月11日午後10時台のNHKニュースより)

炎上する日航機、しかし機内の秩序は守られていた
ニューヨークタイムズ アジア太平洋欄記事(2024年1月2日付)

1月2日に発生した羽田空港の日航機と海上保安庁航空機衝突で、ニューヨークタイムスが乗員乗客たちの冷静な対応をいち早く世界に伝えた。

【モトコ・リッチ東京支局長/上乃久子記者】
 火曜日、東京に着陸した日本航空516便の機内には煙が充満し、機内の混乱と喧噪の中に子供の声が響いた。「お願いです、早く降ろしてください!」客室乗務員が指示を叫び始め、乗客は恐怖に襲われていたが、子供は丁寧な日本語を使って訴えた。

 その後数分、炎が窓の外にちらつく中(これは最終的に日航機を飲み込むことになる)でも、秩序は保たれていた。乗務員たちは、最も安全と思われる3つの出口ドアから367人の乗客全員を避難させ、緊急用スライドから一人ずつ降ろし、乗客に大きな怪我はなかった。ほとんどの乗客は、携帯電話(この悲惨な光景を世界に伝えるため)などわずかな持ち物以外すべての荷物を置いてきた。

 羽田空港で多くの人が奇跡と呼んだこの生還にはさまざまな要因があった。訓練された12人の乗務員、12,000時間の飛行経験を持つベテランパイロット、先進的な航空機の設計と素材、しかし、緊急処置の間、機内のパニックが比較的なかったことが、おそらく大きかっただろう。「悲鳴は聞こえましたが、ほとんどの人は冷静で、席を立たずに座って待っていました」と、ガーディアン紙のビデオインタビューに応じた乗客のイワマ アルトさんは語った。「だからスムーズに脱出できたのだと思います」

 その評価にはストックホルムから来た17歳の乗客、アントン・デイベさんも同意し、「キャビンクルーはとてもプロフェッショナルだったが、彼らの目に恐怖が浮かんでいるのが見て取れました」と語った。それでも彼はこう付け加えた。「誰も我先にと走ることはありませんでした。皆が指示を待っていたのです」。滑走路で海上保安庁の航空機と衝突した日航機火災の翌日、西日本の地震救援に向かう海上保安庁の隊員5人が死亡した事故の原因について、手がかりが明らかになり始めた。

 管制塔と日航機、海上保安庁の機体との交信記録を見ると、日航機には着陸許可が下り、海上保安庁の機体には滑走路横の「ホールディング・ポイントまでタキシング(移動)する」よう指示されていたようだ。海上保安庁の航空機がなぜ滑走路に落ちたのか、その原因究明が進められている。運輸安全委員会の藤原琢也調査官は記者団に対し、同委員会は海上保安庁の航空機からボイスレコーダー、いわゆるブラックボックスを回収したが、日航機のレコーダーはまだ捜索中であると述べた。

 日航機が着陸する際のビデオ映像では、滑走路に突っ込む際に炎が立ち上っているように見え、無傷で脱出できた人がいたとは思えないような状況である。日本航空の広報担当者である沼畑康夫氏は水曜日の記者会見で、午後5時47分に飛行機が着陸してから、6時5分に最後の一人が飛行機を降りるまでの18分間、機体はエンジンから吹き出す炎に耐えていたと語った。この18分間には、飛行機が停止して避難用スライドが展開するまでの、滑走路を約3分の2マイル滑走する時間も含まれていたという。

 緊急着陸の際、90秒以内に客室から避難するよう乗務員は訓練され、旅客機もテストされているが、2年前のエアバスA350-900の技術仕様では、乗客が脱出するのにもう少し時間がかかる可能性が高いとはいう。オーストラリアのシドニーにあるニューサウスウェールズ大学で航空宇宙設計の上級講師を務めるソーニャ・A・ブラウン博士は、エンジン周りの防火壁、燃料タンク内の窒素ポンプ、座席や床の耐火素材などが、燃え盛る炎を抑える役割を果たした可能性が高いと述べた。

 「ある程度の耐火性があれば、初期段階での進行は遅くなります」とブラウン博士は電話インタビューで語った。「もし延焼を抑えるものがあれば、全員を安全に避難させることができる可能性が高まります」。エアバス社のスポークスマン、ショーン・リーは電子メールの中で、A350-900には4つの非常口と機体の両側から出られるスライドが装備されていると述べた。また、通路の両側には床照明があり、「機体の大部分は複合材料で構成されており、アルミニウムと同レベルの耐火性を備えている」と述べた。アルミニウムは一般的に高い防火性能を持つと考えられている。

 飛行機の構造もさることながら、乗務員による明確な指示と乗客のコンプライアンスが、安全な避難に役立っただろう、とブラウン博士は言う。「本当に、今回の日本航空の乗務員は非常によくやってくれました」とブラウン博士は語った。乗客が手荷物を取るために立ち止まったり、出口のスピードを落としたりしなかったことは、「本当に重要なことです」と彼女は付け加えた。

 北海道北部から飛行機で帰国していた東京郊外の会社役員、イマイ ヤスヒトさん(63)は通信社時事通信に対し、飛行機から持ち出したのはスマートフォンだけだったと語った。「ほとんどの人がジャケットを脱いでいたので、寒さに震えていました」と彼は語った。泣き叫ぶ子供たちや大声を出す人がいたにもかかわらず、「ほとんどパニックになることなく避難することができました」

 日本航空の堤正之氏は、緊急時の乗務員の行動において最も重要となるのは、「パニックコントロール」と「どの出口を使えば安全かの判断」だと述べた。元客室乗務員が、緊急事態に備えるために乗務員が受ける厳しい訓練やトレーニングについて説明している。元客室乗務員で、乗務員志望者を指導するヨーコ・チャンさんは、インスタグラムのメッセージに「避難手順の訓練では、煙や火災のシミュレーションを繰り返し行い、現実にそのような状況が発生したときに精神的な準備ができるようにしました」と書いている。

 JALに勤務していなかったチャンさんは、航空会社は客室乗務員に6ヶ月ごとに避難試験に合格することを義務付けていると付け加えた。日本航空の沼畑氏によると、この避難で15人が負傷したが、重傷者はいなかったという。東京の航空アナリスト、杉浦一機氏は、今回の結果は注目に値すると述べた。

 「通常の緊急事態では、かなり多くの人が負傷します」と50年以上航空事故を研究してきた杉浦氏はインタビューで語った。 「緊急用スライドは風で動き、乗客が次々と出口から転落するため、地面に体を打ち付け怪我をする人も少なくありません」。管制塔と航空機の1機との間の連絡ミスが衝突を引き起こした可能性があるかどうかについて、杉浦氏は「何が起こったのかを推測するのは難しい」と述べた。 同氏は、海上保安庁のパイロットが航空管制の指示を「誤解した可能性がある」と付け加えた。

 明らかなことは、「離陸準備中の航空機と別の航空機が同時に同じ滑走路に着陸するべきではなかった」ということだ、とブラウン博士は述べた。彼女は、海上保安庁のプロペラ機は旅客機よりもはるかに小さかったことから、2機が衝突した際、海上保安庁の航空機(ボンバルディア・カナダDHC-8-315)の乗組員は「実際の衝撃自体で」死亡した可能性が高いと述べた。元日本航空パイロットの杉江弘氏は、2機の飛行機が同じ滑走路に入る滑走路侵入があまりにも頻繁に起きていると語った。「ヒューマンエラーは大きな空港でも起こりうる」と彼は言う。

 1991年にロサンゼルスで起きたボーイング機と小型ターボプロップ機の衝突事故以降、パイロットは管制塔からの指示をすべて口頭で繰り返すことが義務づけられている、と杉江氏は語った。日本航空のスポークスマンである沼畑氏は、516便の機長は口頭で着陸許可を確認し、管制塔に繰り返したと述べた。海上保安庁の乗組員も「ホールディング・ポイント」への移動指示を確認した。

【翻訳】星大吾(ほしだいご)・伊勢崎市中央町在住。新潟大学農学部卒業。白鳳大学法科大学院終了。専門は契約書・学術論文。伊勢崎市の外国籍児童のための日本語教室「子ども日本語教室未来塾」代表。問い合わせは:h044195@gmail.comへ。

有数のレトロゲームコレクター「ヘンリー浜川」の正体は?
「伊勢崎まちなか文化祭」は愛好会のオフ会にも(2023年12月9日)
大和さんの自宅のコレクション部屋の一室。書棚のゲームソフト類を説明している

有数のレトロゲームコレクター「ヘンリー浜川」の正体は?
「伊勢崎まちなか文化祭」は愛好会のオフ会にも(2023年12月9日)

 国内外の愛好者で関心が高まっているレトロゲームで、有数のコレクターとして知られる大和祥晃さん(60歳 伊勢崎市三光町)。社長を務めるセレモニーホールのヤマトホール(同市三光町)で開いた「第3回 伊勢崎まちなか文化祭」の最終イベント(11月23日)では、ネット公開上のハンドルネーム「ヘンリー浜川」のコレクションとして体験会を実施。結成5年目の設立時から顧問を務め、会員が2000人に迫る「レトロコンシューマー愛好会」(プラウドロー会長/ハンドルネーム)の仲間も県内外から駆け付けていた。

体験会
超レアソフトのビデオカセッティーロックを保有する愛好会会員が実演(左)、ゲームファンの親子連れも楽しむ体験会

 体験会ではコレクション写真を添えて作成した、日本の主なテレビゲーム機年表を掲示。1977年のテレビテニスに始まり、2020年のプレイステーション5までを大まかに紹介した。会場では1972年に北米で発売された世界初の家庭用ゲーム機「マグナボックス・オデッセイ」が最初に目に入る。カーレース画面で遊ぶ、ビデオカセッティーロックは「超レア」のソフトを会員が持参し、体験を可能にした。近所に住む親子で訪れたゲームファンの父親(41歳)は、「名前は知っていても、見たことも触ったこともない」ゲーム機に驚き、感心していた。

 大和さんが収集したコレクション紹介は当初、自作のホームページだった。入れ替わるように5年前、自分だけのコレクションをネット上で公開できる「MUUSEO(ミューゼオ)」に、「ヘンリー浜川」のハンドルネームで開設した。テレビゲーム機を中心とした各種ゲーム機類はコレクション700点のうち600点をカテゴリー別、年代別に紹介している。別館として各種カタログ、ミニカー、ガンダム・仮面ライダー・おニャン子クラブなどアイドル系のレコードやCD類、・宇宙戦艦ヤマト関連と、多彩なグッズコレクションも掲載。地元食品メーカーの「ペヤング焼きそば」関連を含めて、収蔵総点数は1993点と、あとわずかで2000点の大台に達する。コレクションの3割は未使用で、未開封も含まれているという。

ゲームセンター
ゲームセンターでも見かけるが、実は家庭用。左2台は輸入し、椅子も別途購入

 20代からファミコンをはじめとする家庭用テレビゲーム機などを集め始めていたという大和さん。収集が本格化したのは30代後半に自宅を改装した2000年以降。棚も特注した保管部屋確保で拍車がかかり、現在はリビングルームも含めて5部屋を膨大なコレクションが占領している。ゲーム機器の他、書棚や積み重ね置きコミック類が、各部屋の一角を占めている。収集は当初、出張先の玩具店などにも足を運んだが、今はもっぱらネットオークション。海外も含めた関心の高まりで価格が高騰し、なかなか手が出せないという。今後はコレクションで「ゲーム文化を次の世代に伝えていければ」と控えめに語る。

 レトロコンシューマー愛好会の設立は2017年。会長のプラウドローさんがツイッターで情報交換のコミュニティ―を作ろうと立ち上げた。設立時にミクシーで存在を知っていて尊敬する大和さんにも声をかけ、以来顧問として活動を支えてもらっているという。会員は芸能人や漫画家、ゲーム開発者など多岐にわたり、最近は外国人や女性の入会者も増えている。2000人到達まで残り約50人(11月23日時点)を切っており、年内にも大台達成が見込まれる。伊勢崎まちなか文化祭に訪れていたプラウドロー会長は、「情報共有やオフ会を通じた交流で世界的にも注目されている日本のゲーム文化を発信していきたい」と意気込みを語っていた。(2023年12月9日)

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