国民の政治不信を招いている自民党の裏金疑惑(イメージ写真)

ようこそ日本へ、ここでは悪いニュースが良いニュースとなる
(ニューヨークタイムズ アジア・太平洋欄記事 2024年2月29日)

【モトコ・リッチ東京支局長、上乃久子記者、キウコ・ノトヤ記者】

 経済は数十年間ほとんど成長せず、現在は不況に陥っている。人口は減少の一途をたどり、昨年の出生数は頭打ちとなった。この国の政治は、スキャンダルにまみれ不人気になっても、ひとつの政党が政権を事実上掌握し、あたかも硬直しているかのようだ。
しかし、心配はいらない。ここは日本、悪いニュースはすべて他人事だ。
見渡してみるとよい。日本と同じような傾向の国で一般に予想されるような、ゴミの山や道路の穴、抗議行動などの社会的不和の兆候がほとんど見られない。この国は驚くほど安定し、団結している。
その平静さは、波風を立てない精神を反映している。「しょうがない」は全国民の口癖のようなものだ。

 人々が無関心になるのも無理はない。失業率は低く、電車は定刻通りに運行し、毎年春には桜が咲く。神社や商店街には観光客が殺到し、株式市場は史上最高値を更新している。多少のインフレがあっても、ラーメンは一杯700円、定食は1200円程度で食べられる。東京でも住宅は一般的に手頃で、誰もが国民健康保険に加入している。犯罪も少ない。2022年に日本全国で発生した銃による殺傷事件はわずか3件だった。たとえレストランで携帯電話を忘れても、戻ってきたら誰にも盗られずそこにある可能性が高い。
 先週、東京西部の調布で妹と映画館から出てきたクラシック音楽の打楽器奏者、辻本千尋さん(26)は、「自分の生活環境にはかなり満足しています」と語った。日本人は、「自分の人生が充実していて順調である限り、あきらめて、むしろ幸せだと感じている」と彼は言った。
「日本は平和なのだと思います」と彼は付け加えた。 「つまり、若い世代はこの国を変える必要があるとは感じていないのです」
 戦争や社会的問題に悩まされる外の世界との比較によっても、その精神は強まっている。
東京西部の世田谷でトイレットペーパーを買いに出かけていた化学メーカー勤務の三輪久さん(65)は、「アメリカやヨーロッパに出張することが多いのですが、移民や犯罪率の高さ、暴動などさまざまな問題を抱える他の国に比べて、日本の社会やシステムはとても安定していると感じます」と語った。
 しかし、日本の平穏な表面の下には、多くの根深い問題が残っている。国連が毎年発表している報告書によれば、激しい労働環境と社会的プレッシャーを抱える日本は、先進国の中で最も不幸な国のひとつであり、高い自殺率が大きな問題となっている。男女不平等は根深く、改革が遅れており、ひとり親世帯の貧困率は富裕国の中で最も高い。農村部は急速に空洞化し、高齢化によって年金や介護の負担はますます増えるだろう。

 来年、日本では5人に1人近くが75歳以上の高齢者となる。この現象により、移民の受け入れと共存に苦労している日本では、労働力不足がますます露呈することになるだろう。すでに、日本で最も重要な施設のいくつかで、サービス格差が生まれつつある。
 「手紙が届くまでに4、5日かかります」と慶応義塾大学政策経営学教授の白井さゆりさんは、日本の郵便事業について言及した。かつては投函後1日で確実に配達されていたのだ。
ケーブルテレビやその他の公共サービスに問題があるとき、彼女は「電話で質問したいこともあるけれど、電話関連のサービスはもうない」と言う。
 「人がいないのがよくわかります」と白井さんは言う。 「もはやサービスの質はそれほど良くありません」
 しかし、このような不便さは、差し迫った社会崩壊の兆候というよりは、むしろ単に煩わしさを感じるだけである。第二次世界大戦後の数十年間、日本が急速に豊かになった後、日本の衰退は緩やかで、ある意味ではほとんど感じられない。
経済規模は、今月ドイツを下回ったものの、現在世界第4位である。景気は上下に振れるが、世界で最も高い国債発行率をほぼ乗り越えてきた。人口は毎年約0.5%ずつ減少しているが、東京は依然として世界で最も人口の多い都市であり、流行のドーナツを買うために1時間待ちの行列ができ、一流レストランの予約は何週間も前にしなければならない。首相はたびたび変わるが、いずれにしても現状維持のための取り替え可能な代表である。
 「私たちに何が近づいているかは誰もがなんとなく知っていると思いますが、そのスピードは非常に遅いため、何らかの方法での大きな変化を提唱するのは非常に困難です」と東京の早稲田大学政治学教授、中林美恵子さんは言う。
 日本には変革が必要だと考えている人々でさえ、先鋭化せず諦めてしまっている。
 「日本人はもう少し賢いと思っていたが、かつて一流と言われた経済も今や二流・三流、政府もおそらく四流・五流ともいえないだろう」と、先週横浜駅近くを歩いていた元ホテル従業員の渕別府さん(76)は言った。
 子供たちや孫たち、そして彼らを待ち受ける未来に申し訳ない気持ちでいっぱいだという。
 「結局のところ、民主主義だ」と彼は言った。 「つまり、政府のレベルは国民のレベルを反映しているのだと思う」

 その政権は、戦後ほとんどずっと自由民主党が主導してきた。
ある新聞社の世論調査によれば、党の不支持率は1947年以来最も高い。笹川平和財団(東京)の渡辺恒雄上席研究員は、「国民が自民党に不満を抱いたとしても、結局は自分たちが生きていける限り、そして日常生活がそれほど悪くない限り、あまり気にしない」と言う。「だから自民党政権は非常に安定しているのです」

 現在の不支持率は、日本のメディアを賑わせたものの、一般の人々には難解すぎて詳細が分からない金融スキャンダルに対する国民の苛立ちを反映している。
昨年秋の終わりごろから、自民党内のいくつかの派閥が、政治資金パーティーのチケット販売代金の全額を記録していなかったという疑惑が浮上し始めた。場合によっては、国会議員がその売り上げの一部からキックバックを受け取っていたようで、検察は3人の議員を政治資金規正法違反で起訴した。
 しかし、政治家の巨額な汚職行為が非難される他国とは異なり、日本のメディアは選挙運動中の贈答品や会食についての比較的地味な証拠を掘り起こしている。一部のニュース報道では、ある議員が政治資金を使って書籍を購入した可能性があり、その中には自身が執筆した書籍数千部も含まれていたという。
 野党が混乱する中、自民党はまたしても数々の政治目標を達成しそうだ。理由のひとつは 有権者の関心が低いからだ。

 「市長が誰なのか知らないし、ニュースもあまりチェックしないんです」と打楽器奏者の辻本さんは言う。「動物園で新しい動物の赤ちゃんが生まれたときとか、そういうときだけネットニュースを見るんです」

 【翻訳】星大吾(ほしだいご):伊勢崎市中央町在住。新潟大学農学部卒業。白鳳大学法科大学院終了。専門は契約書・学術論文。2022年、伊勢崎市の外国籍児童のための日本語教室「子ども日本語教室未来塾」代表。問い合わせは:h044195@gmail.comへ。
映画の舞台となったトイレの「TOKYOTOIRETプロジェクト」の紹介チラシ

トイレが主役になった映画「パーフェクトデイズ」
ニューヨークタイムズ 映画欄記事(2024年2月3日付け)

【モトコ・リッチ東京支局長】

 公衆トイレが心を揺さぶり芸術的なインスピレーションが得られるということは通常ありえない。
 そしてまた、東京の銭湯にあるようなトイレというのは世界でも稀である。
だからこそ、『パリ、テキサス』や『欲望の翼』のようなアート系の人気作を手がけたドイツ人映画監督ヴィム・ヴェンダースは、2022年の春に初めて日本の首都周辺の公衆トイレを十数か所見学したとき、安藤忠雄、坂茂、隈研吾らプリツカー賞受賞者がデザインした「小さな宝石」と形容されるものに魅了された。これらのスタイリッシュな便器は、アカデミー賞の国際長編部門にノミネートされ、2月7日にアメリカで公開される彼の最新作『パーフェクトデイズ』の着想に火をつけることこととなった。

 この映画は、謎めいた過去を持つ公衆トイレの清掃員が、質素な生活を送りながら職人のように丁寧に働く姿を描いた切ない人間ドラマであるが、実はある種の宣伝活動がきっかけであった。ヴェンダース監督は、日本の著名な実業家のゲストとして日本に招かれたのだが、その実業家はヴェンダース監督に、日本の芸術性と衛生技術のショーケースとして考案されたトイレを題材にした短編映画シリーズを撮ってほしいと考えていたのだ
 ファーストリテイリング(ユニクロで知られる衣料品大手)の創業者の息子であり、同社の上級執行役員である柳井康治氏は、「日本の誇り」を建築によって表現する公衆トイレ・プロジェクトの陣頭指揮を執っていた。
「日本のトイレが世界一だと言っても、誰も異論はないでしょう」と柳井氏は昨年末のインタビューで語っている。柳井氏は、公共施設を芸術と同じように公益的なものとするため、独特の美的感覚を持つ建築家を採用したのである。

 当初は2020年に予定されていた夏季オリンピックのために世界を歓迎するために建設されたものだったが、パンデミックによって大会が2021年に延期され、無観客で開催されたため、計画はその機会を得られなかった。
 オリンピック・デビューが失敗に終わった後、柳井氏は別のプロモーションの道を模索していた。日本最大の広告会社である電通のクリエイティブ・ディレクターで脚本家の高崎卓馬氏に連絡を取り、トイレを国際的にアピールする計画を練った。
 高崎氏は、クエンティン・タランティーノやマーティン・スコセッシ、スティーブン・スピルバーグといった映画監督を起用することを提案した。大学時代に『パリ、テキサス』を見て以来のファンである柳井氏は、ヴェンダース監督が日本に強い関心を持っており、日本の偉大な監督である小津安二郎へのオマージュであり映像日記であるドキュメンタリー『東京画』を制作していたことを思い出した。

 招待状が届いたときは、パンデミックの真っ最中で、ヴェンダース監督は8年ぶりに訪れた日本にある種の郷愁を感じていた。昨年秋、ヴェンダース監督が審査委員長を務めていた東京国際映画祭の会期中、むき出しの会議室で、スタッフが彼の前に並べたチョコレートの包み紙を剥がしながら、「東京はいつも不思議と落ち着くんだ」と言っていた。
 ベルリン出身のヴェンダース監督は、パンデミック(世界的大流行)の際に、住民が自宅近くの公園を荒らしたことから、市民の心の荒廃に落胆した。東京、とりわけデザイナーズ・トイレに、彼は清潔さや地域社会の協力といった純粋な精神の体現を見たのだ。
 「これほど細部にまで気を配ったトイレは、世界中どこを探しても見たことがない」とヴェンダース監督は言った。彼はこの清掃員の働き(一般的な公衆トイレの清掃が1日1回であるのに対し、柳井氏は清掃員に資金を提供し、毎日2〜3回、建築トイレの手入れをさせている)を市民の精神の賜物と捉えた。

 東京を離れる前、ヴェンダース監督はトイレ清掃員を主人公にした長編映画を撮りたいと考えていた。柳井氏は、1996年の恋愛ドラマ「シャル・ウィ・ダンス?」で主演を務めて以来、国際的な人気を博した日本で最も有名な俳優の一人、役所広司氏を推薦していた。
 物語を作り始めるにあたって、ヴェンダース監督は主人公がどこに住むかを知る必要があると感じた。ヴェンダース監督は東京取材旅行の最後の数日間をロケ地巡りに費やした。彼は、スカイツリーの影に低層アパートがひっそりと佇む、東京の東部にある労働者の街、押上に決めた。
 「私にとって、この界隈は欠かすことのできない場所だった」とヴェンダース監督は言う。「カメラを構えるためには、その場所を愛する必要があるんだよ」。

 監督がベルリンに戻った直後、高崎氏が加わり、わずか3週間で全編日本語の脚本を練り上げた。
ヴェンダース監督は、細部にまで静かな注意を払い、大切にしているカセットテープや地面に落ちた木の葉の影に喜びを見出すような人物像を作り上げた。監督は憧れの小津監督に倣い、小津の代表作のひとつとされる『東京物語』に登場する一家の名前にちなんで、平山という名をこのトイレ清掃員につけた。
 ヴェンダース監督は、必要なものだけに絞り込まれた日常を構想するにあたり、このキャラクターを「持たざることの美しき象徴」にしたいと考えた。
「削減することは現代文明の大きな課題のひとつだ」とヴェンダース監督は言う。「そして、私たち自身の無駄を無くしていく方法を学ばなければ、地球と気候をより良くすることはできない」

2022年の秋に撮影が始まる前、監督と役所氏は、主人公が自宅で大切にしている観葉植物の手入れをしたり、寝室の整然とした棚からフォークナーの翻訳作品を読んだりする様子を撮影するアパートを訪れた。ヴェンダース監督は役者に、美術監督から提供された小道具を合理化し、登場人物にとって最も重要なものだけを残すことを考えるように頼んだ。
 「私はこう自問自答するんです―本当にそんなものを持っているだろうか?と」 役所氏は昨年末、レンタルオフィスでの会見で当時をこう振り返った。 「そうやって現実的でないものを取り除いていくのです」
 役所氏は2日間、特注の道具の使い方を含め、トイレ掃除の技術を学んだ。彼は、ヴェンダース監督がドキュメンタリーを撮っているかのように演じたいと言った。監督は、これほど完全にそのキャラクターになりきった俳優と仕事をしたのは初めてだと語った。役所氏は昨年春のカンヌ国際映画祭で最優秀男優賞を受賞している。

 ヴェンダースは、2022年の秋に記者が撮影現場を訪れたとき、坂茂が設計した公衆トイレのひとつで、紫、赤、黄色の半透明のパネルが貼られた長方形のガラス張りの建物で、利用者がトイレのドアの鍵を閉めると不透明になるもののシーンを撮影していた。
 青いジャンプスーツに身を包んだ役所は、腰に工具ベルトを巻き、青いゴム手袋と白いスニーカーを履いていた。彼は通訳を介してヴェンダース監督に短い打ち合わせした。グレー・ベージュのリネンのスリーピース・スーツに黒ぶちメガネ、黒の布製スニーカーという出で立ちの監督が「アクション!」と声をかけると、役所はバケツとゴミ袋2つ、トイレットペーパー1つを持って中央の個室に入り、エキストラは両脇の個室に入った。
 午後の光が弱まり、15日間の撮影スケジュールの緊張感が撮影現場に漂い始めた。撮影の合間には、役所がトイレのゴミ箱を掃除するために、スタッフがトイレのゴミ箱にゴミを詰めた。業を煮やしたヴェンダース監督が「あっちへ行け!」と叫ぶと、クルーは小走りで自転車の陰に隠れた。
 ヴェンダース監督は、この撮影はこれまでで最も短いものだったと語っており、その無駄のない撮影技術は映画の最小主義的なコンセプトを反映している。

 庄司かおりは日経アジアに寄稿し、この映画を「禅僧との問答のようで、相手には疑問ばかりが残るが、不思議な静けさが漂う」と評し、主人公の仕事への献身を「ほとんどの日本人が当たり前のこととして受け止めている。仕事の重要性は疑いもなく、生まれたときから私たちに叩き込まれているものだ」としている。
 だが、このキャラクターが非現実的なファンタジーだと感じるものもいる。低賃金で薄汚れた仕事に満足し、孤立した生活を送る男は、日本人の平穏さに価値を見出す「男性や西洋人の夢」だと、東京大学の林香織教授(メディア論)は言う。「これを素晴らしいと思うのは、すでにお金持ちで、詰め込みすぎの役員スケジュールから逃れたい人たちだ」と林教授は言う。

 役所氏は、唯足るを知る男という描写が理想主義的に見えることを認めている。
「多くの人間は、欲しいものを手に入れると、すぐに別のものが欲しくなり始める」と彼は言う。 「その考えからは決して逃れることはできない」
 しかし、たとえそのキャラクターが「理想的すぎて、現実には存在しない」ものであったとしても、「そうなろうと努力することには価値がある」と役所氏は言った。

 【翻訳】星大吾(ほしだいご):伊勢崎市中央町在住。新潟大学農学部卒業。白鳳大学法科大学院終了。専門は契約書・学術論文。2022年、伊勢崎市の外国籍児童のための日本語教室「子ども日本語教室未来塾」代表。問い合わせは:h044195@gmail.comへ。
炎上後に灰燼と化した日航機の胴体(1月11日午後10時台のNHKニュースより)

「炎上する日航機、しかし機内の秩序は守られていた」
ニューヨークタイムズ アジア太平洋欄記事(2024年1月2日付)

1月2日に発生した羽田空港の日航機と海上保安庁航空機衝突で、ニューヨークタイムスが乗員乗客たちの冷静な対応をいち早く世界に伝えた。

【モトコ・リッチ東京支局長/上乃久子記者】
 火曜日、東京に着陸した日本航空516便の機内には煙が充満し、機内の混乱と喧噪の中に子供の声が響いた。「お願いです、早く降ろしてください!」客室乗務員が指示を叫び始め、乗客は恐怖に襲われていたが、子供は丁寧な日本語を使って訴えた。

 その後数分、炎が窓の外にちらつく中(これは最終的に日航機を飲み込むことになる)でも、秩序は保たれていた。乗務員たちは、最も安全と思われる3つの出口ドアから367人の乗客全員を避難させ、緊急用スライドから一人ずつ降ろし、乗客に大きな怪我はなかった。ほとんどの乗客は、携帯電話(この悲惨な光景を世界に伝えるため)などわずかな持ち物以外すべての荷物を置いてきた。

 羽田空港で多くの人が奇跡と呼んだこの生還にはさまざまな要因があった。訓練された12人の乗務員、12,000時間の飛行経験を持つベテランパイロット、先進的な航空機の設計と素材、しかし、緊急処置の間、機内のパニックが比較的なかったことが、おそらく大きかっただろう。「悲鳴は聞こえましたが、ほとんどの人は冷静で、席を立たずに座って待っていました」と、ガーディアン紙のビデオインタビューに応じた乗客のイワマ アルトさんは語った。「だからスムーズに脱出できたのだと思います」

 その評価にはストックホルムから来た17歳の乗客、アントン・デイベさんも同意し、「キャビンクルーはとてもプロフェッショナルだったが、彼らの目に恐怖が浮かんでいるのが見て取れました」と語った。それでも彼はこう付け加えた。「誰も我先にと走ることはありませんでした。皆が指示を待っていたのです」。滑走路で海上保安庁の航空機と衝突した日航機火災の翌日、西日本の地震救援に向かう海上保安庁の隊員5人が死亡した事故の原因について、手がかりが明らかになり始めた。

 管制塔と日航機、海上保安庁の機体との交信記録を見ると、日航機には着陸許可が下り、海上保安庁の機体には滑走路横の「ホールディング・ポイントまでタキシング(移動)する」よう指示されていたようだ。海上保安庁の航空機がなぜ滑走路に落ちたのか、その原因究明が進められている。運輸安全委員会の藤原琢也調査官は記者団に対し、同委員会は海上保安庁の航空機からボイスレコーダー、いわゆるブラックボックスを回収したが、日航機のレコーダーはまだ捜索中であると述べた。

 日航機が着陸する際のビデオ映像では、滑走路に突っ込む際に炎が立ち上っているように見え、無傷で脱出できた人がいたとは思えないような状況である。日本航空の広報担当者である沼畑康夫氏は水曜日の記者会見で、午後5時47分に飛行機が着陸してから、6時5分に最後の一人が飛行機を降りるまでの18分間、機体はエンジンから吹き出す炎に耐えていたと語った。この18分間には、飛行機が停止して避難用スライドが展開するまでの、滑走路を約3分の2マイル滑走する時間も含まれていたという。

 緊急着陸の際、90秒以内に客室から避難するよう乗務員は訓練され、旅客機もテストされているが、2年前のエアバスA350-900の技術仕様では、乗客が脱出するのにもう少し時間がかかる可能性が高いとはいう。オーストラリアのシドニーにあるニューサウスウェールズ大学で航空宇宙設計の上級講師を務めるソーニャ・A・ブラウン博士は、エンジン周りの防火壁、燃料タンク内の窒素ポンプ、座席や床の耐火素材などが、燃え盛る炎を抑える役割を果たした可能性が高いと述べた。

 「ある程度の耐火性があれば、初期段階での進行は遅くなります」とブラウン博士は電話インタビューで語った。「もし延焼を抑えるものがあれば、全員を安全に避難させることができる可能性が高まります」。エアバス社のスポークスマン、ショーン・リーは電子メールの中で、A350-900には4つの非常口と機体の両側から出られるスライドが装備されていると述べた。また、通路の両側には床照明があり、「機体の大部分は複合材料で構成されており、アルミニウムと同レベルの耐火性を備えている」と述べた。アルミニウムは一般的に高い防火性能を持つと考えられている。

 飛行機の構造もさることながら、乗務員による明確な指示と乗客のコンプライアンスが、安全な避難に役立っただろう、とブラウン博士は言う。「本当に、今回の日本航空の乗務員は非常によくやってくれました」とブラウン博士は語った。乗客が手荷物を取るために立ち止まったり、出口のスピードを落としたりしなかったことは、「本当に重要なことです」と彼女は付け加えた。

 北海道北部から飛行機で帰国していた東京郊外の会社役員、イマイ ヤスヒトさん(63)は通信社時事通信に対し、飛行機から持ち出したのはスマートフォンだけだったと語った。「ほとんどの人がジャケットを脱いでいたので、寒さに震えていました」と彼は語った。泣き叫ぶ子供たちや大声を出す人がいたにもかかわらず、「ほとんどパニックになることなく避難することができました」

 日本航空の堤正之氏は、緊急時の乗務員の行動において最も重要となるのは、「パニックコントロール」と「どの出口を使えば安全かの判断」だと述べた。元客室乗務員が、緊急事態に備えるために乗務員が受ける厳しい訓練やトレーニングについて説明している。元客室乗務員で、乗務員志望者を指導するヨーコ・チャンさんは、インスタグラムのメッセージに「避難手順の訓練では、煙や火災のシミュレーションを繰り返し行い、現実にそのような状況が発生したときに精神的な準備ができるようにしました」と書いている。

 JALに勤務していなかったチャンさんは、航空会社は客室乗務員に6ヶ月ごとに避難試験に合格することを義務付けていると付け加えた。日本航空の沼畑氏によると、この避難で15人が負傷したが、重傷者はいなかったという。東京の航空アナリスト、杉浦一機氏は、今回の結果は注目に値すると述べた。

 「通常の緊急事態では、かなり多くの人が負傷します」と50年以上航空事故を研究してきた杉浦氏はインタビューで語った。 「緊急用スライドは風で動き、乗客が次々と出口から転落するため、地面に体を打ち付け怪我をする人も少なくありません」。管制塔と航空機の1機との間の連絡ミスが衝突を引き起こした可能性があるかどうかについて、杉浦氏は「何が起こったのかを推測するのは難しい」と述べた。 同氏は、海上保安庁のパイロットが航空管制の指示を「誤解した可能性がある」と付け加えた。

 明らかなことは、「離陸準備中の航空機と別の航空機が同時に同じ滑走路に着陸するべきではなかった」ということだ、とブラウン博士は述べた。彼女は、海上保安庁のプロペラ機は旅客機よりもはるかに小さかったことから、2機が衝突した際、海上保安庁の航空機(ボンバルディア・カナダDHC-8-315)の乗組員は「実際の衝撃自体で」死亡した可能性が高いと述べた。元日本航空パイロットの杉江弘氏は、2機の飛行機が同じ滑走路に入る滑走路侵入があまりにも頻繁に起きていると語った。「ヒューマンエラーは大きな空港でも起こりうる」と彼は言う。

 1991年にロサンゼルスで起きたボーイング機と小型ターボプロップ機の衝突事故以降、パイロットは管制塔からの指示をすべて口頭で繰り返すことが義務づけられている、と杉江氏は語った。日本航空のスポークスマンである沼畑氏は、516便の機長は口頭で着陸許可を確認し、管制塔に繰り返したと述べた。海上保安庁の乗組員も「ホールディング・ポイント」への移動指示を確認した。

【翻訳】星大吾(ほしだいご)・伊勢崎市中央町在住。新潟大学農学部卒業。白鳳大学法科大学院終了。専門は契約書・学術論文。伊勢崎市の外国籍児童のための日本語教室「子ども日本語教室未来塾」代表。問い合わせは:h044195@gmail.comへ。
10月30日の硫黄島沖噴火による新島形成図(東京大学地震研究所ホームページより)

海底火山によって日本に新しい島が誕生中―過程を目撃できる貴重な機会
ニューヨークタイムス アジア太平洋欄記事(2023年11月7日付)

 現在も続く火山の噴火によって、硫黄島から1〜2キロも離れていない海上に小さな陸地が生まれた。これは火山にどのような働きがあるかについて学ぶ、またとない事例研究となる。
(ヒサオ ウエノ,マイクアイヴス)

 3週間前、硫黄島からの眺めは見渡す限り大海原であった。今、すぐ沖合に小さな新しい島があり、成長するにつれて煙を吹き上げている。これは火山島がどのように誕生するのかを目撃する貴重な機会となっている。

 この新しい島は、10月21日に噴火を開始した無名の海底火山の産物であり、第二次世界大戦中に米軍と日本軍が激戦を繰り広げた日本の島、硫黄島から1〜2キロも離れていない。

 東京から離れること数百キロ、太平洋に浮かぶ硫黄島では、噴火が始まって以来、負傷者や被害は報告されていない。この噴火では、珍しい地質学的現象をリアルタイムで見ることができる。

 昨年も同じ場所で同様の噴火が起きているが、今回は噴火地点が水面より上にある、と気象庁の臼井雄二・火山活動主任分析官は言う。

 アメリカ合衆国地質調査所によれば、世界中には潜在的活火山である陸上火山が約1,350あるという。科学者たちは、これまでにさらに数千の「海底」活火山を発見しており、より多くの活火山、あるいは陸上の活火山1つに対して数百ものの活火山が、波の下に潜んでいる可能性があると考えている。

 地質学的な歴史の点からいえば、ハワイ諸島を含む主要な島々は海底火山の噴火によって形成された。しかし、ほとんどの場合、これらの噴火を我々は実際に目撃することはできない。

 「ハワイを形成した噴火は、すべて我々の時代より前のものです」ニュージーランドのオタゴ大学の地質学教授で、海底火山の噴火を研究しているジェームズ・ホワイト氏は言う。「たとえポリネシアのカヌーに乗ってその上で待っていたとしても、海底火山の噴火が水面まで上がってこない限り、噴火を見ることはできなかったでしょう」

 気象庁の臼井氏によれば、硫黄島沖の現在の噴火は数週間前から激しさを増し、先週の金曜日と土曜日にピークを迎えた。東京大学地震研究所の報告によると、10月30日現在、新しい島の直径は約100メートル(328フィート)である。

 日本の同じ地域にある西之島火山の近くでも、2013年に同じような形で小さな島が形成された。その噴火は10年間続いたが、硫黄島付近の噴火は通常1カ月しか続かないと、地震研究所の中田節也名誉教授は言う。

 「噴火がいつ収まるかは不明です。噴火が続くとすれば、島はより高く、より大きくなる可能性があります「」

 ホワイト教授によれば、今回の噴火は、海中約500メートルを貫いてそびえ、山頂が硫黄島として海上に出ているとしている、より大きな「親」火山の側面から始まったようだという。

 ホワイト教授によれば、噴火は持続的な噴火柱を作るのではなく、大きな灰色の粒子が砲弾のような弾道弧を描きながら小さな粒子を吸い込む、指のような噴流で個別の爆発を起こしているという。噴火には赤熱したマグマも含まれており、その混合物が噴火の複雑さを物語っている、と教授は加えた。

 「火山学者でさえ、噴火がどのように起こっているのかを正確に言うのは難しいのです」と教授は言う。

 多くのアメリカ人が硫黄島を知っているのは、この島は連島の一部であり、1945年初頭、第二次世界大戦の死闘の舞台となったからである。

 ピューリッツァー賞を受賞した写真には米国海兵隊によると、米国人6人が写っているという。1945 年 2 月、島の上で星条旗を掲げた海兵隊員の姿は、アメリカ国民にとってこの戦争の忘れがたいイメージとなった。

 西之島火山から約130キロ、硫黄島から北に約2倍離れた父島に住む高橋由佳さんは、西之島噴火の硫黄や煙の臭いを時々感じたことがあったという。

 高橋さん(31歳)が6月に父島から出航した一泊クルーズで硫黄島を見たとき、海に囲まれており、噴火の兆候は見えず、匂いもしなかった。彼女が見たのは、自衛隊が運営する施設と、浜辺に浮かぶわずかな廃船だけだった。

 「新しい島が永久にそこにできるのか、それともまた海の下に沈んでしまうのか、非常に興味があります」彼女は現在の噴火についてこう語った。

 【翻訳】星大吾(ほしだいご):1974年生まれ、伊勢崎市中央町在住。新潟大学農学部卒業、白鳳大学法科大学院終了。2019年、翻訳家として開業。専門は契約書・学術論文。2022年、伊勢崎市の外国語児童のための日本語教室「子ども日本語教室未来塾」代表。同年、英米児童文学研究者として論文「The Borrowersにおける空間と時間 人文主義地理学的解読」(英語圏児童文学研究第67号)発表。問い合わせは:h044195@gmail.comへ。
ムーミンの原作者トーベ・ヤンソン(ムーミンについてのブログより)

ムーミンたちの平和な暮らし〜作者トーベ・ヤンソンの生活〜
地元翻訳家 星大吾翻訳 NYT芸術蘭記事/ニーナ・シーガル(2023 年10月4日付)

 VILLAGE/VANGUARDが全国で開催している期限限定ショップ「ムーミン谷の不思議な住民たち」が2月、スマーク伊勢崎でも開かれ賑わった。今も絶大な人気を誇る、そんなムーミンの作者トーベ・ヤンソンの生涯と生活を知る記事を紹介します。
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 スカンジナビアの作家・芸術家トーベ・ヤンソンが、最初の「ムーミン」の物語の草稿を書いていたのは、ヨーロッパが第二次世界大戦の危機に瀕していた頃であった。

 半ばで書きかけとなったその草稿は戦後まで忘れ去られていたが、1945年に『小さなトロールと大きな洪水』として出版され、後にフィンランド文学の古典となる9冊のムーミンシリーズの最初の作品となった。

 1954年にヤンソンがロンドンの新聞『イブニング・ニュース』で可愛いリトル・ミイ、天真爛漫なスノークのおじょうさん、思慮深いスナフキンといったムーミンのキャラクターを漫画にすると、彼らは世界的に有名になった。1990年代には、日本とオランダの共同制作によるムーミンのテレビアニメ番組と長編映画が制作され、新たなファンを増やした。

 今日、ムーミンはおそらくフィンランドで最も愛されている文化的輸出品であり、スウェーデン語で書かれたヤンソンの本は50カ国語以上に翻訳されている。

 しかし、フィンランドとスウェーデンの同性愛者のアーティスト、熱心な平和主義者、パートナーと年の半分を島で暮らしていたという作者自身についてはあまり知られていない。

 パリのエスパス・モン・ルイで9月29日に始まった展覧会「トーベ・ヤンソンの家」は、彼女の全作品と、その根底にあるユートピア思想により関心を集めることを目的としている。

 ムーミンのイラストや漫画に加え、ヤンソンの絵画やスケッチ、衣装やセットのデザインも展示されており、その多くは平和、寛容、調和への願いをユーモラスに表現している。

 また、ヤンソンの青春時代や、生涯のパートナーであったトゥーリッキ・ピエティラなどの家族関係、芸術を創作した場所などについても紹介している。

 パリのアート集団「コミュニティ」のメンバーであるトゥッカ・ローリラは、「彼女の作品に新たな視点をもたらし、現代的な視点で彼女の作品を探求する」ために、ヤンソンの遺族の協力のもと展覧会を企画した。

 ヤンソンの生涯の伝記的要素を理解すれば、「ムーミンの登場人物の多くが、彼女の周囲の人々や彼女の人生にインスピレーションを受けたものであることがわかります。どのキャラクターが誰を表しているのかを知れば、トーベの人生を読み解くことができるのです」

 シングーミーとボブ、秘密の言葉を話すドレスを着た二人の切っても切れない小さな生き物は、例えばトーベと彼女の初恋の人、ヴィヴィカ・バンドラーがモデルである。楽観的で問題解決型のトゥー・ティッキーは、ヤンソンの長年のパートナーであるピエティラに直接インスピレーションを受けた、とローリラは言う。フィンランドでは1970年代までこのような同性愛は犯罪とされていたが、ムーミンの世界ではそのような関係も見られる。

 本の中では、自然の中で暮らし、珍しい生き物と友情を育み、困難から学び、互いに助け合う方法を見つけることにも焦点が当てられている。

 ヤンソンの伝記を書いたストックホルム大学のボエル・ウェスティン教授(児童文学)は、ヤンソンは平和主義についての自分の考えを表現するために作品を書いたと述べている。

 「戦時中、彼女は日記に幸せな社会、もうひとつの世界を築きたいと書いていた。ムーミンの世界は、その夢のある種の実現、あるいは疑似体験として見ることができる」

 ヤンソン(2001年没)は、1914年にフィンランドのヘルシンキで生まれた。スウェーデン人の母、イラストレーター、シグネ・ハンマーシュテン・ヤンソンと、フィンランド系スウェーデン人の父、彫刻家ヴィクトール・ヤンソンは、美術を学んでいるときにパリで出会った。

 トーベはペンが握れるようになるとすぐに絵を描き始め、ストックホルムとパリで美術を学んだ。15歳のとき、スウェーデン語の政治風刺雑誌『Garm』に初めてイラストを描き、当時台頭していたファシストや共産主義運動を公然と批判した。

 彼女は1953年までこの雑誌で働き、ヒトラーやスターリンの風刺画など約100点の表紙イラストを描いた。この展覧会のもう一人の共同企画者であるシニ・リンネ=カントは、「これは間違いなく危険なことでした」と言う。第二次世界大戦中、フィンランドはドイツ帝国と同盟を結んでいたからだ。

 1944年以降、ヤンソンは1年の半分をヘルシンキのアトリエで過ごし、春が来ると、残りの半年を生涯のパートナーであるピエティラとフィンランド群島のクロフハルン島と呼ばれる小さな島で暮らした。島には一軒しか家がなく(彼女たちの家だ)、電気も水道もなく彼女たちはすべての物資をボートで運んだ。

 「彼女たちの島の小さな家には一部屋しかありませんでした。」トーベの姪で、この島を訪れて育ったソフィア・ヤンソンは言う。「家の隣にはテントもあり、彼女たちは風の音や海の音を聞くのが好きだったので、よくそこで寝ていました」

 島に住む理由はもうひとつあった。それは、フィンランドでは同性愛者であることを理由に逮捕されたり、法的処罰を受けたりする可能性があったが、クロフハルン島では堂々と一緒に暮らすことができたからだ。年をとり、ヤンソンが海を怖がるようになるまで、彼女らは30年間そこで過ごした。

 しかし、完全に孤立していたわけではなかったとソフィアは言う。夫妻は定期的に家族や友人を迎えていた。ムーミンたちが血縁者も見知らぬ人ももてなすのと同じように。

 「お客さんが来ると、お客さんは家で寝て、トーベとトゥーリッキはテントで寝ました」とソフィアは言う。「ムーミンの世界では、ドアはいつも開いているのです」

 この安全な家を作るという考えは、ヤンソンの作品の中心的なものだったとウェスティン教授は言う。ヤンソンは著作の中で、「家は安心できる場所であり、楽しく過ごせる場所である」と言っている。「しかし同時に、家は時に災害に脅かされる、だから、私たちは家を守るために戦わなければならない」

 ムーミンの登場人物たちの状況は、ヤンソンの現実を反映している、とソフィアは言う。ムーミントロールとムーミンママが、いなくなったムーミンパパを探しに行く最初の本からそうだった。

 「彼女の知り合いはみんな誰かを亡くしていました。これは決して大げさに言っているのではありません」とソフィアは言う。「多くの男性が戦線で亡くなり、多くの父親が行方不明になっていました。誰もが転々とし、難民という問題を多くの者が考えていました」

 リンネ=カントは、ヤンソンの作品のテーマの多く、特に自然災害、気候のもたらす災害、難民の苦境は、現代の読者の共感を得ていると語った。

 「ヤンソンは、私たちが今経験していることを描いているのです。彼女がこういった作品を書いていたのは80年前なのですから驚くほかありません」
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 星大吾(ほしだいご):1974年生まれ、伊勢崎市中央町在住。新潟大学農学部卒業、白鳳大学法科大学院終了。2019年、翻訳家として開業。専門は契約書・学術論文。2022年、伊勢崎市の外国語児童のための日本語教室「子ども日本語教室未来塾」代表。同年、英米児童文学研究者として論文「The Borrowersにおける空間と時間 人文主義地理学的解読」(英語圏児童文学研究第67号)発表。問い合わせは:h044195@gmail.comへ。
福島第一原発/11日に処理水放出を伝えるテレビ映像(日本テレビnews every)を撮影

中国で拡散される情報により福島原発処理水放出への怒りが助長される
地元プロが翻訳 NYTアジア太平洋欄記事(2023年8月30日付)
 米国の高級紙、ニューヨークタイムズ。その社説から、日本人にとって関心が深いと思われるテーマ、米国からみた緊張高まる国際情勢の捉え方など、わかりやすい翻訳でお届けしています(電子版掲載から本サイト掲載までの時間経過あり)。伊勢崎市在住の翻訳家、星大吾さんの協力を得ました。
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 中国南岸の広東省では、ある女性が箱詰めされた日本ブランドのエアコンの写真を投稿し、抗議のために返却する予定だと述べた。中国南西部では、日本式居酒屋のオーナーが、アニメのポスターを破り、瓶を叩き割る動画を投稿し、中華ビストロとして営業を再開するつもりだと述べた。

 このようなソーシャルメディアへの投稿の多くには、「放射能汚染水」という言葉が使われている。これは、中国政府と国営メディアが、日本が廃炉とした福島第一原子力発電所の放射能処理水を海に放出したことを指して使っている言葉だ。

 先週、日本が100万トンを超える処理水の第一回目の排水を開始したが、それ以前から中国は排水の安全性に関する誤情報を広める組織的なキャンペーンを展開し、何百万人もの中国人の怒りと不安を煽っていた。

 原子力発電所が大地震と津波で破壊されてから12年、処理水の放出は、中国をアジアのライバル国との外交における騒乱を煽るという古典的なやり方に逆行させた。2012年には、日中両国が自国領と主張する島に日本の活動家が上陸したことで、中国のデモ隊(警察が同行していたと見られる)が寿司レストランを襲撃する事件が起きている。

 しかし今回、中国にはより広い意図があるのかもしれない。世界秩序が大きく変化し、中国とアメリカが世界を「自分の味方かそうでないか」という枠組みで分割する傾向が強まっている中、中国は日本の信頼性に疑念を植え付け、同盟国を不正行為の共謀者として印象付けようとしていると専門家は指摘する。

 カーネギー国際平和財団の核政策プログラム・シニアフェローであるトン・チャオ氏は、「米国、欧州連合(EU)、オーストラリアが日本の放水を支持している中、中国は、日本とその国際的パートナーが『地政学的な利害に振り回され、支配された結果、基本的な倫理基準や国際規範を曲げ、科学を無視している』というシナリオを作りたいのだ」と語る。

 チャオ氏はさらに「私が懸念しているのは、このような認識と情報の乖離が広がることで、中国が既存の国際的な政治や制度、秩序に明確に異議を唱えることが正当化されるのではないかということだ」と続けた。

 国際原子力機関(IAEA)のタスクフォースに招聘された中国の専門家を含む科学者たちは、日本の放水が人体や環境に与える影響は極めて小さいと述べている。

 しかし、日本の処理水放出計画をめぐって、中国政府とその関連メディアは数カ月にわたって非難を続け、先週、中国外務省は日本の「放射能汚染水」放出を非難し、日本の水産物の輸入を停止した。

 福島原発から240km以上離れた東京都の役所には、中国の国際番号から何千もの電話がかかってきており、「バカヤロー!」「なんで汚染水を流すんだ!」などカタコトの日本語で嫌がらせのメッセージを浴びせられている。

 政府や企業の誤情報対策を支援するテクノロジー系企業のLogically社によると、中国の国営メディアや政府関係者、親中派のインフルエンサーによる福島原発に関するソーシャルメディアへの投稿は、今年に入ってから15倍に増えたという。

 これらの投稿は、必ずしも明白な虚偽の情報を流布しているわけではないが、日本が放射性物質をほぼすべて除去してから排水を行っているという事実など重要な情報が抜け落ちている。また、中国の原子力発電所が、福島原発の排水よりもはるかに高レベルの放射性物質を含む排水を放流していることには触れていない。

 国営の中国中央テレビ局と中国グローバルテレビ局は、フェイスブックやインスタグラムで、英語、ドイツ語、クメール語など複数の国や言語で、放水を非難する有料広告を掲載している。

 このような世界的な働きかけは、中国が新たな冷戦ともいえる状況で、より多くの国々を味方に引き入れようとしていることを示唆している。Logically社の中国専門家であるハムシニ・ハリハラン氏は、「重要なのは、日本からの海産物が安全かどうかではない」と語る。「これは、現在の世界秩序に欠陥があると主張する中国の活動の一環である」

 中国の情報源では、日本政府と福島原発を運営する東京電力が、強力なろ過システムでどれだけの水が処理されたかを報告しなかった初期の失敗が指摘されている。

 電力会社のウェブサイトによると、敷地内の貯蔵タンクにある約130万トンの水のうち、30%のみが完全に処理され、トリチウム(水素の同位体であり、専門家は人体へのリスクは低いとしている)だけが残留という。東電は、完全に処理されるまではいかなる水も放出しないと発表している。

 日本の複数の政府機関と東電が行った検査では、先週から放出された水に含まれるトリチウムの量はごく微量で、世界保健機関(WHO)が定めた基準値をはるかに下回っていた。中国や韓国の原子力発電所から放出されている水には、より多くのトリチウムが含まれている。

 国際原子力機関(IAEA)や多くの国の専門家を含む監視ネットワークにより、「日本政府に対する国際的な圧力は非常に高い」と、福島原発事故の環境的・社会的影響を研究しているカリフォルニア大学バークレー校のカイ・ベッター教授(原子力工学)は言う。

 岸田文雄首相の官房長官である松野博一氏は月曜日、日本は「中国から発表された事実と異なる内容を含む情報に対して、何度も反論してきた」と述べた。

 日本の外務省では、ソーシャルメディア・プラットフォーム「X」(旧ツイッター)上で「#LetTheScienceTalk」というハッシュタグを使用している。日本にとっての課題のひとつは、一般市民にとって科学が理解しづらく、このような出来事に対して人々がしばしば感情的に反応することである。

 「よく知らないものに対して、人々が心配したり恐れたりするのは理解できる」 東京の青山学院大学教授で、原子核物理学の社会学と歴史を研究している岸田一隆氏は言う。「自分の目で見たわけでも、確認したわけでもないのに、専門家の説明を信じるしかないのだから」

 科学的な理解の欠如は、特に厳しく管理されている中国の情報チャンネルにおいては、誤情報につながりやすい。Logically社のリサーチ責任者カイル・ウォルター氏は、「何十年にもわたって住民が食の安全に対する不安に直面してきた中国では、当局はその脆弱性を利用して大衆を操り、恐怖心を煽ることができる」と語った。

 それでも、日本は常に自助努力を怠ってきたという批判もある。それらの意見では、東電が計画された排水の30年間で放射性物質の大部分を除去するという誓約を守れるかどうか疑問視されている。また、日本が排水を放出する決定を発表する前に、周辺国と協議すべきだったと言う。

 「中国がリスクを誇張しているのは、日本がその機会を与えたからである」と、震災以来福島の放射線レベルを追跡している環境モニタリング団体『セーフキャスト』の主任研究員、アズビー・ブラウン氏は言う。早くから「国際的な協議が欠けていた」ため、「中国と韓国が正当な疑問を呈することを予期できたはずだ」と彼は言う。

 中国では、政府のプロパガンダに対する反発も散見される。科学ブロガーのリウ・スー氏は、日本の植民地時代の虐待に関連する「ナショナリストのシナリオ」について書き、その中で日本は「永遠に真の許しを否定され、日本に対する批判はすべて合理的で公正なものとみなされる」とした。彼は、あるユーザーから "不適切な言論 "として上海当局に通報された後、ソーシャルメディアからこの投稿を削除した。

 韓国政府関係者は、ソーシャルメディア上で出回っている荒唐無稽な主張のいくつかを否定しようとしている。

 先週、福島原発の近くで変色した水が写っている写真が韓国で広く拡散されたが、政府高官のパク・クヨン氏はこれをフェイクニュースだとし、その写真は放電が始まる8分前に撮影されたものだと指摘した。
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 星大吾(ほしだいご):1974年生まれ、伊勢崎市中央町在住。新潟大学農学部卒業、白鳳大学法科大学院終了。2019年、翻訳家として開業。専門は契約書・学術論文。2022年、伊勢崎市の外国語児童のための日本語教室「子ども日本語教室未来塾」代表。同年、英米児童文学研究者として論文「The Borrowersにおける空間と時間 人文主義地理学的解読」(英語圏児童文学研究第67号)発表。問い合わせは:h044195@gmail.comへ。
生涯で5千に及ぶ曲を作曲したとされる古関裕而の像(出身地の福島駅前)

色あせることのない日本の夏の風物詩 古関裕而「栄冠は君に輝く」
地元プロが翻訳  NYTアジア太平洋欄記事(2023年8月4日付)

 米国の高級紙、ニューヨークタイムズ。その社説から、日本人にとって関心が深いと思われるテーマ、米国からみた緊張高まる国際情勢の捉え方など、わかりやすい翻訳でお届けしています(電子版掲載から本サイト掲載までの時間経過あり)。伊勢崎市在住の翻訳家、星大吾さんの協力を得ました。
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 75年前、高校野球のために作られた古関裕而の「栄冠は君に輝く」は、思い出を呼び覚まし、新たな感動を与えている。 ブラッド・レフトン

 トロント・ブルージェイズの先発投手として活躍する菊池雄星は、実はカラオケ名人でもあり、十八番はかつて所属していた西武ライオンズの応援歌だ。先発登板の合間のオフの日に、彼は「栄冠は君に輝く」の歌詞を知っているかどうか尋ねられたが、どうやらこれは愚問だったようだ。

 ミネソタのビジター側ダッグアウトにユニフォーム姿で立った彼は、満面の笑みを浮かべ、日本語で歌った。

 春にとっての桜がそうであるように、「栄冠は君に輝く」は日本の夏の風物詩である。1948年に古関裕而はこの曲を全国高校野球選手権大会のために作曲した。そして今度の日曜日、過去75年間と同じように、49都道府県の優勝校の選手たちが西宮の甲子園球場に入場し、膝を高く上げ古関の歌に合わせて行進する。

 「夏の風物詩です」と菊池は言った。「そう、まさに、夏の野球の代表曲。幸運にも甲子園球場で全国大会に進出できた球児のためだけでなく、全国大会進出を目指す県予選の間中も流れ、最高のプレーをするための闘志を高めています」

 菊池は2年生と3年生の時に甲子園球場で行進した。ミネソタ・ツインズの先発投手、前田健太は2年生で行進している。

 「頭に残る曲です」と前田は言う。「この曲を聞くと、日本人なら誰もが夏の甲子園を思い浮かべると思います。僕にとっては、高校時代を思い出すし、あの夏の大会に出場したことを思い出します」

 小関は1909年、東京から300km北にある小さな町、福島に生まれた。1930年、アメリカのコロムビア・レコードのライセンシーであった日本コロムビアに作曲家として入社。スポーツにはほとんど興味がなかったにもかかわらず、マーチングの要素に惹かれてチームの応援歌を手掛けた。

 おそらく彼は、自分が日本で最も人気のあるスポーツイベントに関わる仕事をすることになるとは思いもしなかっただろう。

 1915年に全国中学校優勝野球大会として創設されたこの大会は、第二次世界大戦中の4年間、中断されていたが、1946年に再開された。連合国軍の占領下、日本は多くの社会的、経済的改革を行ったが、その中でも教育制度の見直しが行われ、高等学校と呼ばれる3年制のカリキュラムが新設された。

 毎年夏の甲子園で開催されていた野球の祭典は、1948年の第30回大会から「全国高等学校野球選手権大会」に正式名称が変更された。この変更を記念して、主催者はテーマソングの全国公募を行った。そして当時38歳だった小関の曲が選ばれた。

 小関は自伝の中で、終戦からインスピレーションを得たと書いている。大会の継続は平和の継続を意味する。打球の心地よい音と若者の高揚感は、日常となっていた空襲警報のサイレンの鳴り響く緊張感に取って代わる。

 彼は高揚感のある、前向きな曲を求めていた。そのプロセスをこう説明した。

 「インスピレーションを得るために、私は誰もいない甲子園に行き、マウンドの上に立った。熾烈な戦いの中に身を置くとはどんな感じだろうと想像しているうちに、曲のメロディーが自然と頭に浮かんできた。あのマウンドに立つことが、それをつかむための唯一の方法だった」

 小関の甲子園球場への影響力は、この大会だけにとどまらない。彼は、同球場のホームチームである阪神タイガースの応援歌「六甲おろし」も作曲している。

 小関は、1936年にプロリーグが結成された際にこの曲の作曲を依頼された。原題は「大阪タイガースの歌」。この行進曲は、日本プロ野球で最も長く続いている球団応援歌として愛され、黒と金のピンストライプのユニフォームと同じくらいタイガースの代名詞となっている。

 この曲は、ハリー・ケリー(米の野球実況アナウンサー)が歌った「私を野球に連れてって」のようにファンによる熱狂的な人気を得ている。ケリーが亡くなって25年経った今でも、リグレー・フィールドのファンは7回表に有名人が「私を野球に連れてって」を歌うのを待ち望んでいる。

 数多のミュージシャンや有名人が「六甲おろし」をレコーディングしているが、おそらく最も有名なのは阪神のある選手のものだろう。元メッツの内野手、トム・オマリーは阪神に4年間在籍し、毎シーズン3割を超える打率を残した。

 彼は1994年に「六甲おろし」を日本語と英語でレコーディングした。ケリーに倣い、愛すべき音痴っぷりを大衆に曝したのだ。オリジナル盤は10万枚以上を売り上げ、オマリーの日本での活躍が終わってから18年後の2014年にリマスターされたデジタル版がリリースされた。

 小関は先月、プロ・アマ両野球界への音楽的貢献が認められ、死後であるが、日本野球殿堂入りを果たした。その20年前、彼は日本のホームラン王でライバルの読売ジャイアンツでプレーした王貞治から、驚きの賛辞を受けた。2003年の日本シリーズ前、当時福岡ダイエーホークスの監督だった王は、対戦相手として再び聴かされることになるこの曲について尋ねられた。

 「六甲おろしはリズムもいいし、好感の持てる曲です」と王監督は記者団に語った。「対戦相手の応援歌でありながら、実はみんなに勇気を与えてくれる。小関さんが作曲した応援歌は、スポーツをするすべての人を元気にしてくれる」。
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 星大吾(ほしだいご):1974年生まれ、伊勢崎市中央町在住。新潟大学農学部卒業、白鳳大学法科大学院終了。2019年、翻訳家として開業。専門は契約書・学術論文。2022年、伊勢崎市の外国語児童のための日本語教室「子ども日本語教室未来塾」代表。同年、英米児童文学研究者として論文「The Borrowersにおける空間と時間 人文主義地理学的解読」(英語圏児童文学研究第67号)発表。問い合わせは:h044195@gmail.comへ。
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